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取材協力 ナルセ時計株式会社 時計師・代表取締役 成瀬拓郎氏

明治以前に日本で運用されていた時刻制度は、現代のものよりはるかに複雑だった。昼と夜をそれぞれ6等分して一刻とするが、日の入り、日の出は季節によって変化するため一刻の長さも毎日変化する。このような太陽を基準とした時間概念「不定時法」に合わせて作られたのが和時計だ。昼夜なく一定の時を刻む西洋由来の「定時法」時計とは別の進化を遂げた機械技術とはどのようなものだったのか。日本で唯一、和時計製作を手がけるナルセ時計株式会社の成瀬拓郎氏にお話を伺った。

日本の技術産業の礎を築いたのは、正確さの追求ではなく"道楽"

和時計については確かな文献資料がほとんどなく、その起源は明らかにされていない。天保3年 (1832年) に編纂 (へんさん) された『尾張志』の中に「徳川家康が朝鮮より献上を受けた自鳴磐 (とけい) の破損を鍛冶職人の津田助左衛門が修理し、さらに同じものを新作して献上した」という記述があり、これが日本人の作った最初の機械時計とされている。津田の子孫は、そのまま尾張に定住して時計師として尾張徳川家に代々仕え、大いに声望を上げた。「今日の名古屋で技術産業が盛んなのも、こうした歴史がルーツになっている」と、自身も名古屋に拠点をもつ成瀬氏は言う。

その後、津田を元祖とする時計職人たちによって「定時法」の輸入品時計は、季節によって異なる時を刻む日本の時刻制度「不定時法」に合うように作り替えられた。ただ、職人が手作りする時計は非常に高価であったため、将軍家や諸大名、あるいは豪商でなければもつことができなかった。特に精巧で細工を凝らしたものは大名時計という別名でよく知られているが、多くは権威の誇示に用いられた。技術が大衆化した江戸後期は富裕な町人層にまで普及したが、ここでも実用性は求められなかったという。太陽が出たら田畑に出て、沈めば家に帰る。そんな農業を中心とした当時の日本で、時刻を知る必要など、そもそもなかったのだ。

ではなぜ、和時計は存在したのか。「必要でないものに高い技術を注ぎ込む。これはもう道楽ですよ」と成瀬氏は言う。過剰なまでの歯車の繊細さ、装飾の優美さ、台座の重厚さ。要するに和時計は、最初から最後までステータスシンボルとして、あるいは機械技術を楽しむ趣味嗜好の工芸品として位置づけられ、独自の進化を遂げたのだ。時間計測の正確さを追求した西洋の時計とは、技術を注ぐポイントが根本的に違うところが興味深い。

不定時法は、太陽の動きをもとに決められた健康的で自然な時刻制度

和時計を理解するためには、まず江戸時代の時間の概念「不定時法」を知る必要がある。1日の長さを等分に分割する時刻制度を定時法といい、現在は世界共通で1日を24等分している。対して不定時法は1日を昼と夜に分け、それぞれを6等分する。昼と夜の長さは季節によって異なるため、分割した単位時間の長さも変化するのが大きな特徴だ。太陽に左右される時間というのは、定時法に慣れた人々にとっては、さぞ不便だろうと思うが、農耕社会にとってはむしろ都合が良く、成瀬氏の言葉を借りれば「太陽基準の不定時法は、健康的で自然な時刻制度」だった。

日本独自の創意工夫がちりばめられた、不定時法の機械時計

不定時法という複雑な時刻制度を世界で唯一、機械化することに成功

一定の間隔で時を刻む西洋の機械式時計を、日本の不定時法に対応させるには二つの工夫が必要だった。一つは1日のうちで昼と夜の時間の流れに合わせる工夫、もう一つは季節によって昼と夜の長さが変化するのに合わせる工夫だ。そこで当時の職人たちは天符 (テンプ) という、時計が動く速度を変えられる装置を発明した。鐘の下の分銅が付いている櫛歯状の横棒が天符と呼ばれるもので、往復運動をして、振り子のように時計の動く速さを制御する。分銅の位置が遠いと遅く、近づければ速くなる。毎日2回、夜明けと日没に分銅の位置を移動する作業を行い、さらにその位置も季節によって微妙に調節していた。この仕組みは、天符が一つなので「一挺天符式」と呼ばれ、最初の和時計の機構とされている。一挺天符式は、付けるおもりの位置を調整しなければならないため手間がかかる。その手間を省くために開発されたのが、昼夜それぞれの天符を設け、自動的に切り替わる「二挺天符式」だ。昼と夜、個別の時を刻むこの和時計は、機構部品が2台分使用されていた訳ではなく、天符と脱進機 (振動体の振動が持続するよう、振動体に間欠的に力を与える装置) からなる調速機構のみが2台分あり、切り替えは自動で行われた。そのため、分銅の移動は毎日する必要がなく、季節の昼夜の長さに合わせて1カ月にたった2度だけの操作で済むようになった。また、二挺天符式には、文字盤にある希望の時刻に棒を差し込んでおけば、その時間にベルが鳴るという目覚まし時計のような機能もあったという。

和時計に込められた技術こそが価値あるモノづくりの原点

現代の定時法に移行されてから、和時計は必然的に終焉を迎え、今はもう博物館でしか見ることができなくなった。和時計の復刻を試みた成瀬氏が言うには、現存する和時計は数少なく、製作に関する文献等もほとんど残っていなかったそうだ。そんな状況から好奇心と探求心を頼りに製作を始めた成瀬氏は、その過程で当時の職人たちが現代のモノづくりとは違う狙いをもって和時計を作っていたことを知る。例えば、歯車の形状一つとっても、歯の根元を直角にしてヤスリで磨き、歯車の美しさを表現する。他にも、動力おもりが入っているやぐらの中身が見えるようにわざわざ開閉式になっていたりと、時計機能とは関係のない細工や配慮が多分になされているのだ。「数値化できないポイントを狙って手間を注ぎ込む。技術産業のもっとも美味しいところを彼らは知っていました」と成瀬氏。ある意味で、こういう合理的ではない、機能一辺倒ではない技術の使い方は日本人ならではのものだという。

和時計の復刻に魅せられた成瀬氏は、以後、価値あるモノづくりとは何かを意識するようになった。成瀬氏が現代に蘇らせる和時計もまた、歯車の形状をはじめ部品の細部まで徹底的に作り込みを行う。世界に二つとないデザインと、チクタクという神秘的な音、そして日本古来からある時間の概念を表現する機構。職人が手間をかけてこそ、価値あるものが生まれるのだということを、和時計は教えてくれる。良質な金属素材が響かせる涼やかなベルの音色は、大量生産を是とする現代の日本の製造業に対する警鐘に聞こえなくもない。

和時計の表示

時の呼び方は、1昼夜12の刻に十二支を当て、子の刻 (ネノコク) 、丑の刻 (ウシノコク) などとした。正午や午前、午後の「午」は午の刻 (ウマノコク) の名残だ。不定時法では干支の他に数字も使われた。文字表示からの必要性でなく、時を知らせる寺の鐘の音を耳で聞くためのものだった。日の出前に星が見えなくなる時刻を「明け六ツ (あけむつ) 」、日が暮れて星が見える時刻を「暮れ六ツ (くれむつ) 」として、昼夜とも順に五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツと数えた。不思議な並びだが、これは易の考え方に由来している。

[二挺天符袴腰 (はかまこし) 型櫓 (やぐら) 時計 各部の名称]